校長挨拶

 

明晴学園は日本手話を母語として位置づけ、その基盤の上に日本語を第二言語として導入するバイリンガルろう教育を実践する日本で唯一のろう学校です。

日本手話は自然言語です。「ろう者にとって自然な言語」という意味ではありません。自然言語とは「人間が特別な訓練なしに自然に習得し使用する言語」(広辞苑第六版)です。人間の子どもは自然言語を特別な訓練なしに習得し使用する能力をもって生まれてきます。人間にとって母語とは、周囲に「訓練者」がいなくても自然に身につくものです。
ところが、耳が聞こえない/聞こえにくいと、音声言語の自然な習得と使用が難しい場合があります。そして、そのような子どもに対して、特別な訓練によって音声言語を習得し使用させようとすることは当たり前の対応のように思えます。しかし、そのことがろう教育が長年にわたって抱え続けてきた「言語能力」「識字能力」「学力」といったさまざまな「問題」を生み出してきたのです。

ろう者には自然言語である手話があります。ろうの両親のもとに生まれたろうの子どもたちは、日本手話を母語として自然に習得し使用するようになります。そこに「言語能力」の「問題」は存在しません。学習環境さえあれば「識字能力」も「学力」も十分に身につきます。昔からろう教育の現場では、両親ろうのろう児たちの「成績がよい」ことは経験的によく知られていました。しかしそのことを、特別な訓練なしに母語を習得した当たり前の結果であるとは考えてこなかったのです。

1970年代後半以降、手話言語の言語学的な研究が進み、脳科学も手話が音声言語と同じ神経学的基盤をもつことを明らかにしてきました。科学者たちは、耳が聞こえない/聞こえにくい子どもに、特別な訓練によって母語を習得させることのリスクを強調しています。自然に習得されるはずの母語を特別な訓練によって習得させる試みのために支払う「代償」の中には、決して取り返すことのできないものが含まれているかもしれないからです。子どもが子ども時代を子どもらしく生きること、そして同じ言語を共有する仲間とともに安心して過ごすこと、これらは何物にも代えがたい大切なものです。また、訓練が実を結ばなかった場合のことも考えなければなりません。人間にとって母語を習得することは、あらゆる能力を開花させるための基盤となります。母語の習得が十分にできなかった場合の損失は、誰にも埋め合わせすることはできません。

ろうの子どもの9割は、耳の聞こえる両親のもとに生まれます。耳の聞こえる両親にとって日本手話は自分たちの母語ではありません。親と子どもの母語が異なるということは、国際結婚や移民社会などでは時々起こることです。自分たちとは異なる言語を子どもの母語にするという大きな一歩を踏み出した親たちが、自分たちの子どもの母語のモデルとなるろう者たちとともに、この明晴学園をつくったのです。

両親ろうのろう児にとってもバイリンガルろう教育は重要です。両親ろうのろう児たちの「成績がよい」とはいっても、彼らは自分たちの母語で教育を受けることはできませんでした。彼らがもしも自分たちの母語で教育を受けることができていたら、可能性はもっと大きく広がっていたはずです。ろう児が手話を母語とする環境を提供すること、そして、ろう児の母語による教育を行うこと、それが明晴学園の使命です。

私自身は聴者であり、国立障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科の教官として、長年手話通訳養成に携わってきました。しかし、もともと大学・大学院時代の専攻は教育学、修士論文のテーマは「バイリンガルろう教育」でした。明晴学園の校長に就任したことは運命だと感じています。これまでの経験を活かし、明晴学園を盛り立てていきます。みなさまのご支援をよろしくお願いいたします。

 

【校長プロフィール】

1962年生まれ。立教大学文学部教育学科卒業、立教大学大学院文学研究科博士前期課程教育学専攻修了。名古屋文化学園言語訓練専門職員養成学校専任教員、国立身体障害者リハビリテーションセンター更生訓練所(当時)を経て、1996年より国立障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科教官として手話通訳養成に携わり、2023年3月退官。2024年5月から明晴学園校長。2008年から東京大学文学部言語学研究室非常勤講師、2012年から2016年まで国立民族学博物館特任教授。著書に『はじめての手話』(1995年、日本文芸社、共著)、『改訂新版・はじめての手話』(2014年、生活書院、共著)、主な論文に「ろう文化宣言―言語的少数者としてのろう者―」『現代思想』(1995年3月号、青土社、共著)、「Introduction to Japanese Sign Language: Iconicity in Language」『Studies in Language Sciences 9』(2010年、言語科学会)、など。